昨日のblogでも書かせていただいたが、本日・平成23年10月1日、株式会社モノリスはめでたく設立20年目に突入した。
私が社会に出て27年。
株式会社リクルートでの三年間の営業マンとしての経験の後、某学習塾での二年間の講師としての経験を積んで、地元・愛知県江南市の駅前に『大志塾』を開校したのが平成元年10月。
ちょうど三年後の平成4年10月に『株式会社モノリス』は産声をあげた。
【MONOLITH】とは英語で【一枚岩(の団結)】を意味する。
ここに集うメンバーがそれぞれに様々なことを思い感じながら仕事をする中で、楽しい時も辛い時も、いつも【一枚岩の団結】で前に進んで行きたいという願いを込めて、私がつけた社名である。
あれから20年…。
大志塾の創業メンバーは私・下田君・岩田君の3名。
モノリス設立後しばらくして岩田君が抜けた。
その後、彼は東京で個人塾を経営。現在はこちらに戻って異業種に参入して頑張っている。
1993年10月、日本初の作文・幼児教育を柱とした感性を育てるスクール【シーガルスクールFIRST】を開校。
1995年3月、外国人講師による【シーガルイングリッシュクラブ】を開設、同年7月には外国人講師派遣の【オーシャン事業部】を開設、後に分社独立し事業部長であった本多功君が代表取締役に就任。
1997年3月、体育教育事業として【モノリスフットボールクラブ】を江南地域に開設、この体育教育を推進する【P.E.事業部】を立ち上げ、2001年には愛知県の認証を受け【特定非営利活動法人(NPO)スポーツフォーラム愛知】として分社・独立、代表理事には私が就任(現在は齋藤悟)。2002年4月には中学生のための硬式野球クラブ【モノリスベースボールクラブ】を開設、さらに小中学生のための柔道教室【一枚岩道場】を開設、2003年4月には【モノリスゴルフアカデミー】を開設して、現在も地域密着型スポーツクラブとして運営している。
1998年4月には名古屋駅西に医系大学受験専門予備校【名古屋DDP予備校】を開校。その後、分社・独立し、専務取締役を務めてくれていた下田君が【株式会社DDP】の代表取締役に就任。1999年6月には【教育支援協会】が経済企画庁(当時)より特定非営利活動法人としての認証を受け、教育分野における日本初の全国規模のNPOとして立ち上がり、モノリスは愛知支部として活動を開始。後に【教育支援協会東海】として分社化され私が代表理事に就任(現在は本多功氏)。
2003年3月、私立中受験クラスを大志塾から独立させ、中学受験指導専科【E:REX】と改称。また大志塾扶桑校に個別指導【BESPA】を開設。
2004年3月、モノリスの原点【大志塾】を次代を担う真のリーダーの育成を目指すスクール【リーダーススクールモノリス】としてリニューアル。
2007年6月には広告事業を展開してきた【Ps事業部】を分社・独立させ【株式会社MONOLITH Japan】が誕生、代表取締役に私が就任するとともに【株式会社モノリス】の取締役社長には岩井詠子が就任、それに伴い私は代表取締役会長となった。
ざっくりと大きな出来事だけを書き綴ってみたが、これだけをみると順風満帆の20年だったように思われてしまう。
だが実際は何度も大きな危機があり、そのたびに【一枚岩の団結】で乗り切ってきたのがモノリスの偽らざる歴史である。
【文化事業部】が立ち上げたカジュアルフレンチレストラン【B-ish】の大失敗を始め、急速な校舎展開や新規事業の度重なる失敗によって資金繰りが悪化し、情けないが会社存続を諦めかけたこともあった。
一番信頼していた人間に裏切られて、人を信用できなくなった時もあった。
私や会社の方向性に異を唱えて去って行った優秀な社員も数知れず。
それでも最強の金庫番・齋藤を筆頭に、私の大学応援団の後輩で現在は共に役員として頑張ってくれている陣内・東野、膨大なコストと時間とパワーを使って採用し、新卒で入社してくれた多くのメンバー。
そして、結婚後すぐにアルバイトとしてモノリスに入社し、社員・役員を経て現在社長として奮闘してくれている詠子さん。
数え切れない多くの人々の力があって、モノリスは今日の日を迎えることができた。
29歳で後先も考えずに思いだけで塾を作った馬鹿な若造が、たくさんの人の助けを借りて23年。
今も社内外の多くの人に迷惑を掛け、支えられて生かされていることを痛感する。
次は30年を目指すのか。
今はまだそんな先のことを考える余裕もないけど、これからも社名の由来である【一枚岩の団結】を忘れることなく社員と共に進んでゆきたい。
株式会社モノリス
代表取締役会長 岩井良明
20回目の設立記念日に寄せて。